白秋苑日誌
特別養護老人ホーム
白秋苑日誌抄
……愛しき老人たちとの日々
小西久也
はじめに
人として生まれた以上、誰しもいつかは老いを迎えざるを得ない。そして、やがては心身の衰える時期がやってくる。「寝たきり」や「認知症」になることを望む者はいないが、こればかりは思うようにはならない。
医療技術の進歩よって、平均寿命は著しく延び、我が国は二〇〇五年には男七九才、女八四才を越え、世界一の長寿国となった。しかし、平均寿命の延びによる高齢者の増加は、一面では寝たきり老人や認知症の老人の増加でもある。寝たきり老人の場合は、介護の仕方によってある程度まではその数を減らすことが可能であるといわれているが、まだ原因のはっきり分からないアルツハイマー型認知症の場合は、いまのところその可能性は少ない。我が国の場合、その認知症の老人は二〇〇五年には六五歳以上の高齢者の七・六パーセントに上ると推定されている。しかも、認知症の老人の介護年数は、発病してから五年以上の場合が六〇パーセント、一〇年以上の場合が一七パーセントにものぼる。
これら、寝たきりや認知症の時期を、できるだけ人間らしく生きる、あるいは人間らしく生きてもらうにはどうすればよいか、これは今後の高・高齢社会の抱える大きな問題の一つである。
在宅ケアを望む高齢者は多いが、核家族化や女性の社会進出のために、必ずしも希望がかなえられるとは限らない。また、かりに介護をする家族がいたとしても、寝たきりの老人や徘徊癖などのある認知症の老人を五年も一〇年も自宅で介護することは、現在の日本のようにホーム・ヘルパー制度が不十分な状況では、介護者の負担があまりにも大きく、時によっては共倒れにもなりかねない。そして、増え続けている一人暮らしの老人の場合は、はじめから在宅ケアは不可能である。そうかといって、寝たきりになったら老人病院へ、認知症になったら特別養護老人ホームヘ入れてしまえばそれでいい、というわけではない。特に特別養護老人ホームの場合は、入居希望者に対して施設の数がまだまだ不足しており、入居を希望してから何年も待たされる場合が稀ではない。そして、問題は、老人病院や特別養護老人ホームヘ入ったとして、その中でどのように最後まで〈人間らしく生き続けるか〉ということなのである。
特別養護老人ホームの人居者たち、中でもその多くを占める認知症の老人たちが、人間らしく生きて行くためには三つの条件が必要である。
一つは、人居者たちが人間的な生活を送ることのできる施設や設備が完備していることである。最近は、入浴の設備にしても機械浴やリフト浴などの設備を備えているところが多くなり、そういう点ではずいぶん改善されてきているが、最大の問題は居室である。プライバシーの確保という点から言えば、居室は個室が好ましいことは言うまでもないが、多くの施設では四人部屋が普通であり、六人部屋のところもある。ただ、入居したくても入居できない老人たちが数多くいることを考えると、限られた予算の中で、入居者のプライバシーを優先させるか、できるだけ多くの入居希望者の希望に応えるべきか、難しい問題である。
もう一つは、言うまでもなく、日常生活を送るために欠かすことのできない食事や入浴やトイレなどに対する十分な介護サービスがあることであり、ともすれば不安定になりがちな高齢者の健康に対する医療サービスがあることである。具体的に言えば、入居者の数に見合った介護職員が確保されていることであり、看護士などの医療担当職員が確保されていることである。介護職員を例にとると、多くの施設では入居者二人につき一人の介護職員がいる。重度の認知症が少なく、自分である程度自分のことができる入居者が多い施設は別にして、重度の認知症が多く、全面的な介助を必要とする入居者の多い施設ではこの数は決して十分とは言えない。たとえば、都下M市のM園は、五〇人の入居者のうち、重度の認知症が六六%、全面的介助を必要とする者が四六%で、介護職員が数は二五人である・その介護職員のある日の平均労働時間(食事や休息を除いた実労働時間)は七時間三六分、内訳は食事、排泄、着替えなどの基本的な介護のための時間が六時間三二分(八六%)、会議や打ち合わせが二時間四分(一四%)であり、最低限の介助で手一杯の状態だと言う。そのため、自立度の高い人たちはやむを得ず放って置かれ、気がついたときには機能低下が進んでいるということもあるとのことである(M園の寮母主任Kさんの話)。
そして、もう一つは認知症の老人たちが、他の人間たちと「人間的なふれあい」をもてる場があるということである。人間は他者との人間的なふれあいの中で、はじめて人間的に生きられる。健康で経済的に恵まれていても、他者との間に人間的な交流がなければ、その人は人間らしく生きているとは言い難いであろう。このことは、認知症の老人たちの場合も例外ではない。いや、むしろ、家族から離れて特別養護老人ホームのような施設で暮らす認知症の老人たちには、健常者以上に他の人たちとの人間的ふれあいが必要なのである。
しかし、このことは必ずしも一般の人たちには十分理解されていないようである。それどころか、認知症の老人たちにはもはや人間的交流はできないと考えている人が多い。たしかに認知症も重度になれば、言葉による意思の疎通は難しくなる。しかし、その場合もスキンシップによるふれあいは可能である。まして、多くの認知症の老人たちは記憶障害や状況判断の曖昧さはあっても、ふれあいの場さえ与えられれば、言葉による意思の疎通、つまり人間的な交流は決して不可能ではない。しかし、多くの場合、人手不足や周囲の無理解によって、そういう場が与えられていないのが現状なのである。
本書の舞台である都下C市にある社会福祉法人白秋苑は、青春と朱夏を過ぎ、やがて玄冬の世界に入ろうとする老人たちが、人生の白秋を過ごしている施設である。二階と三階が特別養護老人ホームで、三〇名ずつ六〇名の老人たちが暮らしている。一階はデイサービスの施設で、日中世話をする人のいない在宅の老人たちが、毎日三〇人ほどやってくる。
白秋苑には六〇人の職員たちが働いているが、みんな入浴やトイレや食事の世話ななどに献身的に働いている。その仕事ははたで考えるよりずっと大変で、とくに入ったばかりの若い職員が、入浴やトイレの世話に無理をしすぎて腰を痛めるという話もよく聞く。ただ、いま述べたように、彼らには一人ひとりの入居者の話をじっくり間くだけの時間的なゆとりがないのである。
この日誌を読んでいただけばわかるように、認知症の老人たちにとっては、身の回りの世話や体のケアとともに「心のケア」が必要なのである。そして、その心のケアとは、先ほど書いたように、他の人間との「人間的なふれあい」なのである。おむつたたみやデイサービスの散歩の相手などのボランティアは少しずつ増えてきたが、心のケアをするボランティアはまだまだ少ない。しかし、こういう分野こそ、本来的にボランティアの活動分野ではなかろうか。筆者は、一人のボランティアとして、ここ十数年毎週一~二日を白秋苑の老人たちの話し相手として過ごしているが、これはその日々の記録の一部である。この日誌を読まれた方の中から、何人かでも、あの愛しき老人たちと心のふれあいをもってみようと思われる方が出てきてくれれば幸いである。
二〇〇七年 二月
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